旧海軍兵学校の歴史
昭和57年江田島町発刊「江田島町史」p.209〜217の全文を掲載。
| 明治十九年四月海軍条例が制定され、全国の海面が五海軍区に分けられた。第二区鎮守府を呉に置くことに決定し、明治二十二年七月呉鎮守府が開庁した。 |
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| これらと関連してか、さきに海軍兵学校移転の議が起こり、同校次長伊知地弘一大佐の兵学校をへき地に移転する主張が認められた。同大佐の移転の理由は | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| かくしてその白羽の矢が江田島に立てられた。 明治19年6月1日、江田島視察測量のため、主計少監原田敬、大尉荒井久要、五等技師朝倉清一、三等技手西郷時貞、属梅若利幸を広島県へ出張被仰付。 |
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| これによっていよいよ測量が始まり、土地の買収、敷地の造成など着々と整備された。 当時島の状況は、農閑期を利用して遠く紀州方面(和歌山県)に木こりとして出て行ったり、近くに江波、丹那方面のノリ取りに雇われたり、あるいは山口県へ季節労務者として働きに行き、貧農にあえいでいた島民に朗報がもたらされた。それは海軍兵学校移転の賃仕事が始まったからである。その工事に出ると男子は一日八銭の賃金が得られるからである。この工事は海軍出張官直接に指揮し労務者1300〜2000名、男女を通じ50名を一組とし差配人が監督し、各組順番に繰り出す、賃金は10日ごとに渡し、20分の1を積み立てて、差配人、戸長が管理し、駅逓局に貯金する。ここは申し合わせによって他所の者は宿泊せしめず島民のみで労務者を占めたのである。この正月はもちをつき、マツ飾りもして新年らしい気分に浸った(『大呉市民史明治編』による) |
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| 江田島の労務賃は男子8銭であったが呉の宮原、和庄両村内の20万坪の地均工事の労務者の賃金は13銭から14銭5厘であった。それに比べると江田島は非常に安いのである。この当時の人口は約1万であるから5人に1人はこの工事に従事したことになる。当時弁当はほとんどサツマイモであった。それを諷刺するかのごとく、 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 江田の海軍がヤーレ、十銭なれば芋の弁当は持たしゃせぬソノワケチヤッチヤッ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 当時流行した唄であった。このころ米1升(1.8リットル)が6銭であった。そのほか物価の主なるものを挙げると麦1升3銭、卵1個1銭、ネギ1把1銭、牛肉100匁4銭、醤油1升10銭(明治21年1月調) |
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| 明治19年9月当時の校長松村少将、次長伊知地大佐の内諭あり、 今般兵学校を繁華輻輳の都会より四面絶海の弧島に移転するの目的は生徒をして世上の外聞を避け精神を勉学の一途に赴かしむるに在れば現在島民の外に他の人民の移住雑踏することなからんやう注意すべし、 ここにおいて本員らは将来教員に更迭あるも学校移転の目的は二無きを信じ着島以来、公務の傍此の目的の水泡に帰せざらん事に努めたり。 |
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| とある、さらに、兵学校が移転されるについて、将来の生徒を対象としてボロイもうけを案じたり、移転反対を策する者もあったので、これらを押さえ、または諭すために戸長久岡才十に対し学校移転の要旨を通じ、江田島に兵学校を移転されることは未曽有の僥倖で天より無限の福祉を与えられたものであるから島民もまた天に報ゆるに学校のために尽くすべきである。 |
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| 教法寺鷹谷一来にも学校移転の旨意を領せしめ、島内の善男善女をして学校移転の目的を妨げることないように、もし妨げる者あらばすなわち弥陀の罪人にして未来永劫六道をさまよう者である。 また島民を諭して戸長の説諭、院主の法話、説教をよく聞き学校移転に協力するよう諭したと記載されている。なお戸長、院主の力の及びがたく郡長の説諭を仰いだ場合もある。 |
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| 江田島では土工は凡て村民が独占したが建築工事にかかれば他地方からの入込みはやむを得ないので杉山郡長は同島へ出張して固習規約を設けるべく勧告した。即ち固有純朴の風俗を保持し近来各地に流行する猥せつ醜行を避けるべく芸妓類似は勿論飲食店に酌取名義を以って紛らははしきものを置かぬこと、また他地方からその目的を以ての家屋借入の求めに応じないこと−など。(『大呉市民史』) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 安芸郡江田島村固習規約 |
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| 右ノ通リ規約ヲ定メ将来堅ク遵守可致依テ玄ニ連判スルモノナリ 明治二十年一月 |
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| この規約により村内はもとより、他町村からも風俗営業を目的とする業者は入ってくることができなくなった。 かくして明治21年4月工事費26万8000円で新築中の建物、物理講堂、水雷講堂、重砲台、官舎、文庫倉庫、活版所、製図講堂、雛形陳列場、柔道場など落成し施設はほぼ完成した。島民申し合わせて校門前に十字路を修築して寄付す。(『大呉市民史』)村民が兵学校移転に協力したことが知られる。 |
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| 生徒は7月18日、8月10日、8月28日・29日と三組に分かれて移り、8月20日には高砂丸にて関係者300名来島移転を終わる。11月3日天皇誕生の日に移転の披露をかねて祝賀の宴が催された。 |
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| これよりさきただし生徒の学習は「明治20年8月31日東京丸を自今将校生徒学習船と称す。東京丸は江田島に於て繋留練習艦として使用の目的を持って神戸小野浜造船所において艤装中なり。」とあり、「21年8月1日本校を安芸国江田島に移さる汽船旧東京丸を以って生徒学習船と称し船内に於て同月13日より開庁し校務を処便す。」 江田島丸を受領す(5月26日進水小野浜造船所建造)。但し19年10月1日起工、21年5月31日竣工(『海軍兵学校沿革』による) |
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| 明治21年8月1日いよいよ我が国唯一の海軍兵学校が東京築地から江田島に移転され、海の士官ようらんの地となり、これにより島の文化も一変した。 |
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| 時に海軍大臣は西郷従道、兵学校長は海軍少将有地品之允であった。 明治22年4月20日江田島移転後最初の卒業式が挙行された。卒業生の中には32代首相で二・二六事件で危く難を免れられた岡田啓介、海軍大臣財部彪、そのほかに広瀬中佐などの名が残っている。 |
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| 明治23年4月21日、天皇陛下臨席のもとに呉鎮守府開庁式が挙行された。 翌4月22日海軍兵学校においでになり29名の卒業式が挙行された。 この日午前8時15分呉の御宿所を発せられ9時特別艦にて文武諸官と呉を出発、午前10時20分兵学校桟橋着午後1時30分より卒業式に臨場、式後水雷発射、機関砲射撃、端艇競走などを御覧になられた。 |
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| また産業奨励のため、海産物、農産物などを見られ、これらをお買上げになられた。そして23日午前9時特別艦高千穂は江田島湾を出港、佐世保に向かった。 |
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| その後長く天皇の御来島はなかったが、昭和5年10月23日陛下には軍艦霧島にて江田島湾に入港、表桟橋から海軍兵学校にお着きになられた。皇太子のころの大正3春から4度目のことである。村長平谷佐与吉は村民を代表して江田島ミカンを差し上げた。 翌24日には古鷹登山の御予定であったが、あいにくの雨で中止になり、兵学校生徒の学習状況など御覧になられ午後四時四十分江田島湾を出港された。 |
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| その後天皇陛下には昭和11年10月16日より海軍特別演習のため軍艦愛宕に乗艦、10月27日江田島湾に入港、海軍兵学校にお出になられ、教育参考館御巡視の後、生徒の諸作業を御覧になられ、午後5時江田島湾を出港された。 |
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| 江田島移転以来御来島の天皇陛下、皇后陛下、皇太子殿下 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 海軍兵学校は、明治2年(1869)9月18日東京築地に海軍操練所として創設せられ、同3年11月海軍兵学寮と改称、明治9年8月海軍兵学校と改称され、明治21年江田島に移転された。以来大正、昭和と年を重ね、昭和18年ごろより太平洋戦争が熾烈を極め、多数の生徒を収容しなければならなかったので各地に分校が設立された。 |
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| 戦局は我に利あらず、ついに、昭和20年8月15日終戦、本校分校ともに8月18日生徒を休暇帰省させた。 江田島移転以来57年の長きにわたり世界三大海軍兵学校の一つとして、実に1万4124名(明治22年〜昭和20年10月卒業生)の海軍士官を養成した海軍兵学校も9月以降約100名の残留者をもって引渡準備業務に従事。 |
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| 海軍兵学校に在学された皇族は次のとおりである。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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